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数学の話をするとき、間違えるのが怖くなることがあります。正解を知らなければ、会話に入れない気がして。
小川洋子さんの『博士の愛した数式』には、そんな身構えをほどいてくれる人がいます。記憶が80分しかもたない数学者の博士です。家政婦として働く「私」と、その息子。三人が数字を囲む冒頭には、知識の多さだけでは測れない、人と話す楽しさがあります。
わからない時間を、一緒に過ごす
博士が息子につけた呼び名は、ルート。頭の形が数学の記号に似ているからです。博士はその頭を撫で、紙の積まれた机のわずかな隙間に、指で記号を描きます。
机いっぱいに広がる紙と、その隙間を使った小さな説明。難しそうな数学が、手を伸ばせる距離まで近づいてくるようです。けれど、息子は最初から無邪気に喜んでいるわけではありません。首をすくめる反応も描かれていて、二人の距離がすぐに縮まったことにしないところにも惹かれます。
そして博士は、母子が答えを考える時間を急かしません。間違いから生まれる新しい疑問にも、価値を見いだす人です。
私はこの姿勢を、数字の説明そのものと同じくらい大切に感じます。わからないとき、相手の前で黙って考えていられる。そんな会話なら、もう一つ質問してみたくなります。
博士にも、教わることがある
数字を語る博士が、何でも知っている人として描かれるわけではないのも、この冒頭の好きなところです。トースターの扱いでは、家政婦に丁寧に頼み、パンの焼ける様子をのぞき込みます。
得意なことを教える人と、助けてもらう人。その役割が、一人に固定されていません。数学に詳しい博士と、暮らしの仕事を担う「私」。それぞれの知っていることが違うからこそ、相手に尋ねる言葉が生まれます。
この物語の入口にあるのは、難問を解けるかどうかの試験ではなく、誰かの関心に耳を傾ける時間です。数字の話が苦手でも、まずは博士の待ち方や、ものを頼む声に注目してみてください。
いつもの数字にも、その数字を話す人にも、少し違う顔が見えてくる。11月特集「見えていた世界が変わる物語」の一冊として、そんな入口を紹介したい作品です。
今回紹介した本
『博士の愛した数式』小川洋子/新潮文庫
紙の文庫:ISBN 9784101215235、304ページ。
参考:新潮社の作品紹介・書誌 /公式試し読み
アイキャッチはAI生成によるイメージです。実際の書影や作品の場面を再現したものではありません。
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