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脱獄した死刑囚が逃げている。そう聞くと、私はまず、どこまで逃げられるのだろうと考えます。
染井為人『正体』は、その青年を追う物語です。けれど、ずっと逃げる本人の背中に張りついているわけではありません。潜伏先で出会う人たちの目を通して、彼の日々が見えてくる。その距離に、私は惹かれます。
同じ場所で働く、名前も過去も知らない人
青年は工事現場や旅館など、場所を変えながら身を隠します。追う側には、脱獄した人物を捜す理由がある。一方、出会った人にとっては、同じ職場に来た見知らぬ誰かです。
追う側と出会った人とでは、青年を見る手がかりが違います。捜索の情報を知ることと、日々の仕事のなかで一人の人に接すること。その間に距離があるから、読者が持つ印象も落ち着きません。
私は、「死刑囚」という情報の重さを感じながら、彼と顔を合わせる人の視線へ引き寄せられます。何を知っているかによって、同じ人が違って見える。けれど、身近で見たことだけで全部が分かるわけでもない。その両方を抱えたまま読まされるのが、この物語の怖さです。
逃亡の緊張が、日常の中にある
逃げる話なら、追う人と追われる人の距離ばかりが気になりそうです。でも、この作品で青年が身を隠すのは、仕事や暮らしが続いている場所。工事現場には一緒に働く人がいて、旅館には客を迎える日々があります。
その中で、いつまで身を隠せるのか。何かが起こるのを待つだけでなく、青年と接する人の生活にも目が向きます。逃亡の場面が切迫しているほど、同じ場所で過ごす時間の一つひとつが、後から違う意味を持ちそうで落ち着きません。
場所が変わるたび、新しく出会う人がいる。青年の行き先を知りたい気持ちと、その場所で彼を見た人たちの話を聞きたい気持ちが、私の中で並んで進みます。逃亡劇の先を急ぎながら、人との出会いにも足を止めたくなる一冊です。
一つの呼び名で、分かったことにしない
「死刑囚」という情報は、簡単に脇へ置けるものではありません。凄惨な事件があったことも変わらない。それでも、その言葉だけで青年のすべてを見たことになるのか。『正体』は、答えを急ぎたくなる私に、もう少し彼を見ていたいと思わせます。
逃亡の行方を追う面白さと、人をどう見るかという問いを一緒に味わいたい方へ。事件の真相や結末を知らないまま、青年が次に出会う人の視線をたどってほしいです。
一家を殺害した事件を扱う作品です。重い犯罪を題材にした物語が苦手な方は、その点を知ったうえで選んでください。
この一冊について
『正体』/染井為人 著/光文社文庫/ISBN 978-4-334-79294-7
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参考情報
アイキャッチはAI生成によるイメージです。実際の書影や作品の場面を再現したものではありません。
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