明るい木の部屋で包みを手に、窓の外を眺めるフェオのピクセルアート

『槇こずえのまにまに移住生活』|パンを捏ねる時間から、暮らしを選び直す

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「好きだったことをする余裕がない」と気づくときがあります。忙しい日々が続いて、それがどれほど大切だったか、少し後になってわかることも。

長月天音さんの『槇こずえのまにまに移住生活』は、仕事を辞めて埼玉県小川町へ移り住んだ、42歳の槇こずえの物語です。パンを作る手の動きから始まる冒頭で気になるのは、新しい土地そのものよりも、そこで取り戻した時間です。

2026年10月に刊行された祥伝社文庫の新作です。「ほどなく、お別れです」や「キッチン常夜灯」シリーズの著者が、今度はパンと新しい土地での暮らしを題材にしています。

こずえが手放したくなかった時間

冒頭、こずえは古い家の土間でパン生地を捏ねています。台を兼ねた古いテーブルは、生地を打ちつけるたびにきしむ。窓の向こうには木々が見えて、発酵を待つ間に散歩へ行こうかと思い浮かべる。

私は、この場面の少し不格好なところが好きです。最初から整ったキッチンではなく、急ごしらえの場所。それでも、ここでパンを作りたいという気持ちははっきりしている。住む場所を選ぶとき、部屋の便利さだけでなく「ここで何をして過ごしたいか」を思い描いているところに惹かれます。

こずえにとってパン作りは、焼き上がったものを食べる楽しみだけではありません。べたついた生地が少しずつまとまり、手のなかで変わっていく。その過程に夢中になる時間が、彼女の暮らしの中で大きな意味を持っていました。

一度は見送った移住を、もう一度

こずえは長く勤めた会社で働き続けるうち、好きだったパンを焼く気力さえ失ってしまいます。周りを支えようと頑張っているのに、自分の努力は見えていないように感じる。その苦しさを知ってから冒頭の土間を思い返すと、生地を捏ねられる朝がいっそう大切に見えてきます。

こずえは以前にも移住を考えながら、一度は見送っています。当時は、情報を集めることで満足し、東京での暮らしを手放すのが惜しくなった。仕事の後の食事や映画、習い事も楽しんでいました。私は、東京にとどまったこの時間も描かれていることにほっとします。

新しく始めたパートでの孤独や、同じ移住者の万里との出会いが、この先に待っています。好きなパン作りが、今度はどんなふうに人とのつながりになっていくのか。冒頭の土間で過ごすこずえを知ると、その日々も見てみたくなります。

好きな時間を、暮らしに残したい人へ

仕事や暮らしを見直したいけれど、何から考えればいいかわからない人へ。パンを作る手触りを文章で味わいたい方にも、まずはこの冒頭を読んでほしいです。移住そのものを目指していなくても、好きな時間を自分の暮らしにどう残すか、考えるきっかけになりそうです。

紹介したのは、長月天音さん著、祥伝社文庫の紙の文庫版(ISBN 978-4-396-35219-6)です。

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綴 紫乃

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